善光寺

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その他施設

雲上殿 納骨堂

雲上殿【うんじょうでん】は善光寺平を一望できる地附山の中腹にあります。このお堂は、善光寺に古くから伝わる納骨・分骨の風習を受け継ぐもので、現在は納骨堂として管理されています。堂内の霊壇【れいだん】・霊龕【れいがん】(永代使用可能な簡易墓)や個別納骨、合葬納骨は宗旨宗派を問わずどなたでもご利用いただけます。内仏殿には善光寺如来様の分身仏が祀られ、納骨された縁故者のために日々追善法要が行われています。

「善光寺縁起」壁画
霊壇

内仏殿には、近代日本画家を代表する野生司香雪【のうすこうせつ】画伯による善光寺縁起などを描いた壁画をはじめ、雲上殿に入ってすぐのホールには、国際的な活躍を続ける日本画家の千住博画伯の桜図が収められております。
また、雲上殿前にある牛の石像は現在動物供養の場となっており、昭和二十六年(1951)に日印友好の証として送られた聖牛の遺骨も埋葬されています。

雲上殿

大勧進

山門手前にある橋を渡ると、善光寺の天台宗を束ねる大勧進【だいかんじん】があります。大勧進の住職は御貫主【おかんす】様と呼ばれ、大本願の御上人【おしょうにん】様と共に善光寺住職を兼ねています。貫主は代々比叡山延暦寺より推挙される慣習になっており、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事などの法要の導師を勤めます。
大勧進には本堂の万善堂の他、無量寿殿・不動堂・地蔵八角円堂・紫雲閣・宝物館・僧侶が修行をする聖天堂などがあります。また、奥書院は明治天皇御巡幸以来、大正天皇、昭和天皇両陛下の御駐泊により、昭和八年(1933)に行在所に指定されました。

大勧進

大本願

仁王門手前を左に入ると、善光寺の浄土宗を束ねる大本願【だいほんがん】があります。大本願の創建以来、尼公上人をもって住職とし、代々皇室・五摂家関係の方々が入山されています。近世において、尼僧では伊勢・慶光院、熱田・誓願寺とともに日本三上人といわれていましたが、今日では大本願御上人様のみが法燈を継承されております。大勧進御貫主様と共に善光寺住職を兼ねており、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事などの法要の導師を勤めます。大本願には、本誓殿・奥書殿・明照殿・表書院・光明閣・寿光殿・宝物殿などがあります。

大本願

ぬれ仏(延命地蔵)

山門の南東にある大きな地蔵は、ぬれ仏または延命地蔵【えんめいじぞう】と呼ばれます。享保七年(1722)に善光寺聖・法誉円信【ほうよえんしん】が、全国から喜捨を集めて造立しました。
江戸の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めたものという言い伝えがあるため、俗に「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれ火伏せの意味合いから通称「ぬれ仏」と呼ばれています。

六地蔵

ぬれ仏の南側に並ぶ六地蔵【ろくじぞう】は、宝暦九年(1759)に浅草天王町祐昌が願主となって造立されましたが、昭和十九年(1944)に軍需物資のための金属供出に出されました。現在の六地蔵は昭和二十九年(1954)に再興されたものです。六地蔵とは、私たちが輪廻転生するといわれる地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界で、我々衆生を救ってくださる菩薩様です。

大香炉

本堂手前にある大香炉【だいこうろ】は戦時中に金属供出に出されましたが、昭和三十一年(1956)に富山県高岡市で作られ奉納されました。本堂に入る前に線香を供え、その煙で心身を清浄にし、また体につければ無病息災、病気平癒の功徳が得られると言われます。御開帳時には、この香炉の手前に高さ約10mの回向柱が立てられます。

歴代回向柱納所

歴代回向柱納所【れきだいえこうばしらおさめじょ】は、山門から第2駐車場へ向かう途中にあります。この納所には複数の大きな木の柱が並んでいます。この柱は回向柱といい、数え年で七年に一度開かれる御開帳のシンボルとして、前立本尊と人々との架け橋となります。回向柱は、御開帳終了後にこの納所へ移され、人々の思いと共に長い年月を経て土に還っていきます。

現在は昭和三十年(1955)から平成二十七年(2015)までの十本の回向柱があり、一番古い柱は高さ約30cm程になっています。

爪彫如来

歴代回向柱納所の先に小さなお堂があります。ここには浄土真宗宗祖・親鸞聖人が善光寺へ滞在された折に手彫りした阿弥陀如来と伝わる像があり、爪彫如来【つめぼりにょらい】と呼ばれています。

ここに架けられている絵馬を見てみると、「めめめめ」「目目目目」などが書かれた物が多く見られます。

仏足跡

山門の西にある足跡が掘られた石碑は天保九年(1838)に大勧進光純が建立した仏足跡【ぶっそくせき】です。仏足跡は仏像が作られる以前から礼拝の対象であり、古来より仏様がそこに存在した証の一つとして用いられました。仏様の足跡を拝むことは生身の仏様を拝むのと同じく、無量の罪障を滅するといわれます。

仏様には、普通の人間とは異なる姿である「三十二相【さんじゅうにそう】八十種好【はちじっしゅごう】」があると言われていますが、足の裏には「瑞祥七相【ずいしょうしちそう】」という七種の模様や法螺貝などがあります。いつの頃からか健足を願う場となっており、毎年四月に開催される長野マラソンの前後には、多くのランナーが完走を願って手を合わせています。

石畳

境内地入り口から本堂までの長さ約460m幅約8mに敷かれている石畳【いしだたみ】は、正徳四年(1714)に江戸中橋の大竹屋平兵衛より寄進されたものです。古来より7,777枚あるといわれています。平兵衛は寄進後出家し「道専」と名乗り、そのお墓は善光寺山内の向仏坊の墓地に現存しています。現在この石畳は長野市の文化財に指定されています。

駒返橋

仲見世通りが終わり、山門へ進む参道の入り口にある石橋は、建久八年(1197)源頼朝が善光寺を参拝した時に、馬の蹄が穴に挟まってしまったために乗っていた馬から降りて引き返したという故事から駒返り橋【こまがえりばし】と呼ばれています。その馬蹄の凹みは現在も駒返り橋の左側に見ることができます。古来、これより先へは一切の乗物の乗り入れは許されず、身分の差なく徒歩でのみ参拝する定めとなっています。敢えて「下馬」という表現を使わずに、武士の棟梁である頼朝公ですら馬を下りて参拝したという故事で伝えるこの橋は、鎌倉時代という武家社会を垣間見ることのできる史跡です。

如来堂跡(延命地蔵)

仲見世通り中央西側に「如来堂旧地【にょらいどうあとち】」という石碑と延命地蔵【えんめいじぞう】があります。この地は善光寺草創以来、本尊壇があった場所であり、延命地蔵は江戸神田恵念、覚念により現本堂落成から五年後の正徳二年(1712)に造立されました。弘化四年(1847)の善光寺地震で焼損し、その後復興するも明治二十四年(1891)に再び焼損、大正四年(1915)に再興されましたが戦争により供出されました。現在は昭和二十四年(1949)に復興された地蔵尊が安置されています。

釈迦堂・釈迦涅槃像

如来堂跡の向かいにある世尊院の小御堂である釈迦堂【しゃかどう】の御本尊は、鎌倉時代の作とされる我が国唯一の等身大(1.66m)の銅造釈迦涅槃像【しゃかねはんぞう】です。戦国時代には善光寺の御本尊・御三卿像・御印文と共に全国を流転しました。

おやこ地蔵

本堂の東側にある小さなお堂は「おやこ地蔵」です。平成二十三年(2011)三月東日本を襲った大震災では日本各地で甚大な被害が生じました。善光寺でも被災各地への支援を行い、その支援の一つとして津波により倒されてしまった高田松原の松を木札にして販売する支援をしました。更に被災松を後世に残したいという思いから「お地蔵様」の製作を行いました。製作に協力いただいた東京芸術大学 薮内佐斗司教授と地元の皆様との相談の結果、4体の親子地蔵様を製作することになりました。お父さん地蔵は善光寺で、お母さん地蔵と子供地蔵たちは陸前高田の普門寺に安置されております。
例年七月上旬、善光寺と陸前高田の皆様で地蔵盆を開催し、お父さん地蔵も里帰りをしてご家族で過ごされております。