善光寺縁起

『善光寺縁起』とは、善光寺御本尊の故事来歴をつづった霊験譚です。
平安時代末期には全国的に広まっていたといわれ、多くの人々の信仰を集めました。


engi_01お釈迦様が印度・毘舎離国の大林精舎におられる頃、この国の長者に月蓋という人がありました。長者の家はたいそう富み栄えておりました。しかし、長者は他人に施す心もなく貪欲飽くなき生活をしておりました。ある日、お釈迦様は長者を教え導こうと自らその門を叩かれました。
さすがにお釈迦様のおいでと聞き、長者は黄金の鉢に御馳走を盛って門まで出ました。しかし、「今日供養すれば毎日のように来るであろう。むしろ供養せぬほうがよかろう」と急に欲心を起こして家に入ってしまいました。

engi_02月蓋長者には、如是という名の一人の姫君がありました。両親の寵愛は限りなく、掌中の玉と愛育されておりました。
ところがある年、国中に悪疫が流行し、長者の心配もむなしく如是姫はこの恐ろしい病魔にとりつかれてしまいました。
長者は王舎城の名医・耆婆大臣を招くなどあれこれ手を尽くしました。しかし、何の効き目もありません。万金を投じ人智の限りを尽くしても及ばぬ上は、お釈迦様に教えを乞うほかはないと親族たちは申し合わせました。

engi_03長者は初め不本意でした。ですが、我が娘の病苦を取り除きたい一念から遂に大林精舎に参り、お釈迦様の御前に進み、従前の罪障を懺悔し、如是姫の命をお救いくださるようにお願い致しました。
お釈迦様は「それは我が力にても及ばぬことである。ただ、西方極楽世界におられる阿弥陀如来様におすがりして南無阿弥陀仏と称えれば、この如来様はたちまちこの場に出現され、姫はもちろんのこと国中の人民を病から救ってくださるであろう」と仰せられました。

engi_04長者はお釈迦様の教化に従い、自邸に帰るとさっそく西方に向い香華灯明を供え、心からの念仏を続けました。この時、彼の阿弥陀如来様は西方十万億土の彼方からその身を一尺五寸に縮められ、一光の中に観世音菩薩・大勢至菩薩を伴う三尊の御姿を顕現され大光明を放たれました。
すると国中に流行したさしもの悪疫もたちまちにして治まり、如是姫の病気もたちどころに平癒いたしました。長者はもとより一族の者は皆喜ぶことこの上なく、如来の光明を礼讃いたしました。

engi_05長者はこの霊験あらたかなる三尊仏の御姿をお写ししてこの世界に止め置くことを発願し、再びお釈迦様におすがりいたしました。
お釈迦様は長者の願いをおかなえになるため神通第一の目連尊者を竜宮城に遣わされ、閻浮檀金を竜王から貰い受けることとしました。
竜王はお釈迦様の仰せに従い、この竜宮随一の宝物をうやうやしく献上いたしました。

engi_06さてこの閻浮檀金を玉の鉢に盛ってお供えし、再び阿弥陀如来様の来臨を請いますと、彼の三尊仏は忽然として宮中に出現なさいました。そして、阿弥陀如来様の嚇嚇たる白毫の光明とお釈迦様の白毫の光明は共に閻浮檀金をお照らしになりました。
すると不思議なことに、閻浮檀金は変じて、三尊仏そのままの御姿が顕現したのでした。長者はたいそう喜び、終生この新仏に奉仕致しました。この新仏こそ、後に日本国において善光寺如来として尊崇を集める仏様であったのです。そして、この三尊仏は印度で多くの人々を救い結縁なさいました。

engi_07時は流れ、百済国では聖明王の治世を迎えておりました。この聖明王は月蓋長者の生まれ変わりでした。しかし、王はそれとは知らず悪行を重ねておりました。ところが、如来様が百済国へお渡りになり、過去の因縁をお話しになると、たちまち改心して善政を行なうようになりました。
百済国での教化の後、如来様は次なる教化の地が日本国であることを自ら告げられました。百済国の人民は老若男女を問わず如来様との別れを悲しみ、如来様が船で渡る後を追う者さえありました。

engi_08欽明天皇十三年(552年)、尊像は日本国にお渡りになりました。宮中では聖明王から献ぜられたこの尊像を信奉すべきか否かの評議が開かれました。
大臣・蘇我稲目は生身の如来様であるこの尊像を信受することを奏上し、大連・物部尾輿、中臣鎌子は異国の蕃神として退けることを主張しました。
天皇は蘇我稲目にこの尊像をお預けになりました。稲目は我が家に如来をお移しし、やがて向原の家を寺に改め、如来様を安置し、毎日奉仕いたしました。これが我が国仏教寺院の最初である向原寺といいます。

engi_09さてこの頃、国内ではにわかに熱病が流行りました。物部尾輿はこれを口実として、天皇に「このような災いの起こるのは蘇我氏が外来の蕃神を信奉するために違いありません」と申し上げ、天皇の御許しを得て向原寺に火を放ちました。
炎々たる猛火はたちまちにして向原寺を灰燼にしました。ところが、彼の如来様は不思議にも全く尊容を損うことがありません。そこで尾輿は再び如来様を炉に投じてふいごで吹きたてたり、鍛冶職に命じてうち潰させたりなどしました。しかし、尊像は少しも損傷されることはありませんでした。

engi_10万策尽き、ついに彼等は尊像を難波の堀江に投げ捨てました。その後、蘇我稲目の子・馬子は父の志を継ぎ、篤く仏法を信仰しました。そして、これに反対する物部尾輿の子・守屋を攻め滅ぼし、聖徳太子と共に仏教を奨励しました。ここに初めて仏法は盛んになりました。
聖徳太子は難波の堀江に臨まれ、先に沈められた尊像を宮中にお連れしようと、その御出現を祈念されました。すると如来様は一度水面に浮上され、「今しばらくはこの底にあって我を連れて行くべき者が来るのを待とう。その時こそ多くの衆生を救う機が熟す時なのだ。」と仰せられ、再び御姿を水底に隠されました。

engi_11その頃、信濃の国に本田善光という人がありました。ある時、国司に伴って都に参った折、たまたまこの難波の堀江にさしかかりました。すると、「善光、善光」と、いとも妙なる御声がどこからともなく聞こえました。そして、驚きおののく善光の目の前に、水中より燦然と輝く尊像が出現しました。
如来様は、善光が過去世に印度では月蓋長者として、百済では聖明王として如来様にお仕えしていたことをお話になりました。そして、この日本国でも多くの衆生を救うために、善光とともに東国へお下りになられることをお告げになりました。善光は歓喜して礼拝し、如来様を背負って信濃の我が家に帰りました。

engi_12善光は初め如来様を西のひさしの臼の上に御安置し、やがて御堂を建てて如来様をお移しいたしました。ところが翌朝、善光が参堂いたしますと、尊像の姿はそこにはありません。慌てて家に帰ると、いつのまにか最初に御安置した臼の上にお戻りになっておられました。そして、善光に、「たとえ金銀宝石で飾り立てた御堂であろうとも、念仏の声のないところにしばしも住することはできない。念仏の声するところが我が住みかである」と仰せになりました。
また、善光は貧困で灯明の油にも事欠く有様でした。そうしたところ、如来様は白毫より光明を放たれ、不思議なことに油の無い灯心に火を灯されました。これが現在まで灯り続ける御三燈の灯火の始まりといわれます。
如来様の霊徳は次第に人々の知るところとなり、はるばる山河を越えてこの地を訪れるものは後を絶ちません。時の天皇である皇極帝は、善光寺如来様の御徳の高さに深く心を動かされ、善光と善佐を都に召されて、ついに伽藍造営の勅許を下されました。
こうして、三国伝来の生身の阿弥陀如来様を御安置し、開山・善光の名をそのまま寺号として「善光寺」と称しました。以来千三百年以上の長きにわたり、日本第一の霊場として国内津々浦々の老若男女に信仰されるようになりました。