善光寺

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紹介

善光寺とは

信州善光寺は、一光三尊阿弥陀如来【いっこうさんぞんあみだにょらい】(善光寺如来)を御本尊として、創建以来約千四百年の長きに亘り、阿弥陀如来様との結縁の場として、また民衆の心の拠り所として深く広い信仰を得ております。当寺は特定の宗派に属さない無宗派の寺であり、全ての人々を受け入れる寺として全国に知られますが、現在その護持運営は大勧進【だいかんじん】を本坊とする天台宗と、大本願【だいほんがん】を本坊とする浄土宗の両宗派によって行われています。御本尊の一光三尊阿弥陀如来とは一つの光背の中に三尊(中央に阿弥陀如来、両脇に観世音菩薩、勢至菩薩)が配置された様式で「善光寺式阿弥陀三尊像」とも呼ばれます。

歴史

『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教という新しい宗教を受け入れるか否かを巡る崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。その後、信濃国国司の従者として都に上った本田善光【ほんだよしみつ】が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642)現在の地に遷座されました。皇極天皇三年(644)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。

1.草創期

草創期を語る史料は残念ながら善光寺には残っていません。しかし、発掘史料や史書などから、いにしえの善光寺の姿をうかがい知ることはできます。
大正十三年(1924)と昭和二十七年(1952)には、境内から白鳳時代の川原寺【かわらでら】様式を持つ瓦が発見され、7世紀後半頃には、かなりの規模を持つ寺院がこの地に建立されていたことがわかってきました。

2.平安時代

平安後期にあたる12世紀後半に編纂された『伊呂波字類抄【いろはじるいしょう】』は、8世紀中頃に善光寺の御本尊が日本最古の霊仏として京の都にも知られていたことを示す内容が記されています。また、10世紀後半は、京の貴族を中心に浄土信仰が盛んになった時期でもありました。こうした浄土信仰の隆盛とともに、善光寺聖【ぜんこうじひじり】と呼ばれる僧が御本尊のご分身仏を背負い、縁起を唱導して全国各地を遍歴しながら民衆の間に善光寺信仰を広めました。

3.鎌倉時代

鎌倉時代になると、源頼朝や北条一族は厚く善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地の寄進を行いました。善光寺信仰が広まるにつれ、分身仏として御本尊の模刻像が多く造られ、全国各地にはそれをお祀りする新善光寺が建立されました。現在の「前立本尊【まえだちほんぞん】」は鎌倉時代に作られました。鎌倉時代には多くの高僧の帰依も受けました。東大寺再建の勧進聖として有名な俊乗坊重源【しゅんじょうぼうちょうげん】をはじめ、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人【しんらんしょうにん】、時宗の宗祖・一遍上人【いっぺんしょうにん】なども善光寺に参拝し、ご仏徳を深く心底に感得されました。今も各宗高祖が善光寺を訪れた名残を見ることができます。

4.戦国時代

戦国時代は本尊流転の時代と言われます。この時代では、時の権力者らによって本尊像は翻弄されることとなりました。善光寺平【ぜんこうじだいら】(現在の長野市がある平野部)では武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を巡り、川中島の合戦を繰り広げました。弘治元年(1555)、武田信玄は御本尊である一光三尊阿弥陀如来像や多くの什宝【じゅうほう】、寺僧に至るまで、善光寺を組織ごと甲府に移しました。その武田家が織田・徳川連合軍に敗れると、御本尊は織田家、徳川家の祀るところとなり、最後は豊臣秀吉が京都・方広寺の御本尊としてお祀りしました。そして、秀吉の死の直前、善光寺如来様がその枕元に立たれ、信濃の地に戻りたい旨をお告げになりました。それによって善光寺如来像は慶長三年(1598)、四十数年ぶりに信州善光寺にお帰りになられました。

5.江戸時代

戦乱の時代に巻き込まれ、善光寺をはじめ門前町全体が荒廃を余儀なくされました。しかしその後、江戸幕府開府に伴い、徳川家康より寺領千石の寄進を受け、次第に復興を遂げて参りました。泰平の世が続き「一生に一度は善光寺参り」と多くの人々が参拝しました。念仏を唱えて一心に祈る者は性別・身分を問わず、誰であっても極楽浄土に導いて下さると、一貫して無差別平等の救済を説く寺院として知られていました。そのため、女性の参拝者が多いことが善光寺参りの特徴でした。当時の参拝の様子を描いた絵馬にも、女性の信者の姿が数多く描かれています。

6.本堂の再建、現代の境内の姿へ

善光寺の歴史は、度重なる火災の歴史でもありました。火災後の再建に掛かる資金の多くは、御本尊の分身仏である前立本尊【まえだちほんぞん】を奉じて全国各地を巡る「出開帳【でがいちょう】」を行い全国の方々からいただいた浄財によって賄われました。特に最後の大火となった元禄十三年(1700)の火災は、焼失前に既に計画されていた本堂移築用の資材も全て焼失してしまうものでした。その後、現在の本堂を再建するために全国各地で五年間の出開帳を行い、寄進された二万両を越す浄財によって宝永四年(1707)現在の本堂を落成し、続いて山門、経蔵などの伽藍が整えられました。

7.近代

近代を迎え、交通網の発達とともに参拝者は増加し、今日では年間約600万人もの方々がこの地を訪れます。平成十年(1998)2月に行われた長野冬季オリンピックの開会式では、善光寺の梵鐘が世界平和の願いを込めて全世界に向けて響き渡りました。
平成二十二年(2010)ダライ・ラマ法王14世が来寺し世界平和を祈ると共に砂曼荼羅の開眼をされました。この砂曼荼羅は同時にご寄贈いただいた仏像と共に史料館に安置されています。平成二十三年(2011)に発生した東日本大震災の復興支援やその後の台風被害などの自然災害の折には、祈りの場として多くの人々が訪れる場となりました。特に陸前高田市はおやこ地蔵を介してのご縁が結ばれ今も交流が続いています。

善光寺にはおよそ千四百年という長い歴史がありますが、その多くは市井に暮らす人々の思いと共に作られてきた歴史でした。今後も仏教伝来より続く善光寺信仰は、多くの参拝者により支えられ未来へとつなげられています。