善光寺法話

第49回 遥拝

遥拝(ようはい)とは、その字面の通り神仏を遥かに拝することを意味します。
古来より全国各地から篤信を頂戴していた当山では、この遥拝が盛んでした。
このことは御詠歌にも詠われ、広く人口に膾炙してきました。

「身は茲(ここ)に心は信濃の善光寺 導き給へ弥陀の浄土へ」

遠く離れた善光寺への憧憬と、現代とは異なる遠路参詣の難儀が同時に感じ取れる詠歌ではないでしょうか。

この難儀とは時代時代、また個人個人で様々でしたが、健康でない者、路銀の足りぬ者、田畑や家の留守を守らねばならぬ者等々。人それぞれに止むを得ない理由によるものだったことでしょう。しかしながらこのような難儀を推してもなお、善男善女皆々様の善光寺への信仰や報恩のお気持ちは止まることなく、時代が下った現代へも遥拝の形をとりながら脈々と続き、広く体現されていきました。

思うに、現在ほど多くの人々が世界中で難儀を強いられる時代はなく、私どもも平時と同じ様に皆様に参拝を強くお勧めすることが難しい時世です。当山ではこの窮状に逸早い安穏が訪れること、より一層のご祈念をいたし日々お勤め申し上げています。

年末年始にかけて、多くの方々が善光寺にお参りにいらっしゃいます。特に大晦日から正月の三が日は、善男善女の方々で境内立錐の余地がなくなります。如来さまのご加護に預かろうといらした方々が、災厄に見舞われるようなことがあっては本末転倒です。三密を避けてご参拝いただけるよう、善光寺では皆様に「分散」しての参拝をお呼びかけしています。年内に参拝され清々しい気持ちで新年を迎えられても、年を越してから落ち着いて参拝いただいても、如来さまのご加護に変わりはありません。

また、何かしらの事由でご参拝の叶わぬ皆様におかれましても、先人の残された遥拝の文化があります。当山の善光寺如来さまとのご縁を新たに、より一層の合掌いただきたく伏してお願い申しあげます。