善光寺法話

このコーナーでは、法話や善光寺にまつわる説話などを紹介してまいります。

【最新】第40回 執着

あなたは何かに執着がありますか?

このように聞かれれば、たいていの方はドキッとされるのではないでしょうか。

お金や地位、名誉への執着、食べ物への執着、愛する誰かへの執着などなど、誰しもが何かしら思い当たる節があるでしょう。過去の自分を振り返り反省をする方もいるかもしれません。

 

一般的に強いこだわりやとらわれを表す、この「執着」は私ども仏教の世界では「しゅうじゃく」と読み、よく知られている「煩悩(ぼんのう)」に近い言葉といえるでしょうか。

ですから、この執着を放ち、真に自由を得ることは我々仏教徒の目標であるともいえるわけです。

執着が人生の妨げになることは皆様よくよくご理解をなされているようで、近頃は断捨離(だんしゃり)やミニマリスト、あるいはスローライフといった話題をよく耳にするようになりました。

それらが、時としてよりよき生活や穏やかな心をもたらしてくれることは想像に難くありません。

ですが、お釈迦様の説かれた執着に限っては、事はもう少々複雑で、

 

「執着を離れたいという気持ち自体も執着である」

 

との教えを残されました。フムフムと聞けば納得するような気もしますが、よくよく考えれば堂々巡りの大問題、ことば遊びのようで、我々凡夫の頭を悩ませます。

おちおち不用品の整理もできませんし、人里離れた静けさに衣食住を求めるわけにもいきません。

このお釈迦様の説法以来、執着とは何か、執着をどのようにとらえ、いかに付き合うべきかといった難問は、執着自体が生ある我々全てに身近であるがゆえに、仏教界の大いなる命題の一つであり続けました。

喜々としてその答えについて皆様とお話することができれば一件落着となるのですが、先のお釈迦様のお教えに従えば、皆様と執着についてお話をしたいという気持ち自体も執着である、ということになるのでしょうか。

我々は永遠に執着から解き放たれることはないようにも思われます。

 

しかしながら、そのような戸惑いを抱く一方、私ども善光寺には荘厳を備えた本堂や清らかな鐘の音、香り立つ紫煙、朝事の静寂などなど、我々自身がこの執着と向き合い、その本質を悟り、解放されるための手掛かりが数多くあると信じてやみません。

 

どうぞどうぞ、大きな執着を連れて善光寺をお参りください。私どももご一緒に執着と向きあうことができましたら幸いに存じます。

 

合掌